高校生による舞台芸術公演の劇評(レビュー)を募集

第4回グランプリ 受賞作

優秀賞

傾き、歌舞伎、KABUKI

大阪市立咲くやこの花高等学校 2年 小川竜駆

 「傾き」というのが「歌舞伎」の語源であることは言うまでもないが、実際に何が傾いているのか説明しろと言われると意外に難しい。全国巡業の歌舞伎ではしばしば、専用劇場とは違った発見ができる。例えば今回、岸和田波切ホールのオペラ座のような空間にミスマッチな定式幕。「ああ、カブイているなぁ」いやいや、このミスマッチさが先述の「傾き」を指すわけは毛頭ない。もっと歴史の初めから積み上げられてきた奥深い傾きの正体があるはずだ。この度の公演から、それについて突き詰めてみようと思う。
 『妹背山女庭訓』は、丸本物の名作で五段十二場の超大作である。そのため、通しで上演されることはなかなかない。今回上演されたのは、中でも人気の高い「三笠山御殿の場」だ。本来ならこの前に道行恋苧環という舞踊が入り、求女(実は藤原淡海)と橘姫、そして三輪の三角関係が分かりやすく展開される。今回はまず開演に先立ってその省略部分についての解説が行われた。まだ物語が始まる前だというのに米吉の口調は相当な傾きぶりを発揮している。現代語であるのにもかかわらず、周りの観客たちは理解不能な顔をしているではないか。しかしもともとこの喋り方は、庶民のために普通の会話の間やテンポを大袈裟にして、わかりやすくおもしろく工夫した結果なのである。喋り方に限ったことではない。小道具なども原寸大では作らずに大きめにするし、登場人物の動きも大袈裟にする。この庶民への思いやりもどうやら「傾き」についてのヒントとなりそうだ。
 幕が開くと花道から主人公求女が恋人橘姫と共に登場し、敵方入鹿の館に入る。求女は、実の正体が淡海であることを隠しているが、橘姫がこの館の主の妹であることを知り驚く。となれば、入鹿誅伐のためには彼女に味方についてもらうかその命を奪う他ない。ここで早くも一つ目の葛藤が描かれる。「ぜひもなや」と激しく苦悩する場面は、文楽では人形の首を震わせ太棹の音色が激しく追うような渾身の形で表現されるが、生身の人間が演じる歌舞伎では、制限なく自由な顔面表現ができるため観ていて極めてわかりやすい。
 この演目においてはこのあとさらに重要な葛藤シーンがある。それは、切れた苧環の糸を辿り御殿の内に転がり込んでくる杉酒屋の娘お三輪の『疑着の相』に表される。この悍ましい顔づくりに凄まじいこだわりがこめられている理由は、その顔が単なる恋物語だけでなく、大化の改新を下敷きにした歴史活劇としての結末にもかかわっているからだ。金輪五郎が探し求めていた入鹿誅伐にかかせない疑着の相ある女の生血は相当のものでなくてはいけない。官女たちの虐めを受け、奥の祝いの声を聞いてしまったお三輪を演じる雀右衛門は、花道七三まで来ると少し間を取りそこから一気に髪を解き見得を切った。「おのれ、おめおめ添わそうか」その顔はとてもこの世のものとは思えない、誰もが認める『疑着の相』であった。そのとき私は、観客の想像力に多くを委ねる文楽のそれとは明らかに違う「傾き」に出会ったような強い印象をもった。能楽の世界で世阿弥が語る「秘すれば花」などとは対照的に、とにかく派手にダイナミックにそこにある姿を観客の眼に焼きつけるといった手法だ。その迫力に私は、思わずそれを日常の中で見たことのある疑着の相と重ね合わせて身を震わせてしまった。
 口上をはさんだ後の『太刀盗人』にも十分に「傾き」の要素が感じられた。松羽目物ということは、狂言を歌舞伎としてアレンジしたという意味でまさに傾いているわけだが、目代の古典的な固定観念を退けたリアルな表情や微細な動き、すっぱ九郎兵衛と田舎者万兵衛の連れ舞は、巧みに元の狂言を庶民に寄り添った芸能へとすり替えている。種之助の動きとワンテンポずつ遅らせて舞う又五郎の最大限に誇張された足捌き。それはどんどんとエスカレートしてゆき、まさに傾きの極みに達する。しかし、しっかりとした型があるからこそ最後まで崩れずに芸が届いてくるのだ。私はどこまでも型破りな道を知っている歌舞伎が形無しにはならない秘密を知り、その芸の神髄にただただ感激してしまった。
 文楽を歌舞伎に、狂言を歌舞伎に調理すると、この「傾き」の果たす役割は大きい。その姿勢は現代にまで受け継がれ、今もなお幅広く歌舞伎が愛され続けているカギになっていると思う。時代を超えさらには国境を越え、万人に通じるグローバルな傾きの精神こそ歌舞伎からKABUKIへと進化を遂げた理由なのではないだろうか。

[公演名] 松竹大歌舞伎 中村芝雀改め 五代目中村雀右衛門襲名披露
[主催団体/劇場] 公益社団法人全国公立文化施設協会/岸和田市立浪切ホール

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