高校生による舞台芸術公演の劇評(レビュー)を募集

第3回グランプリ 受賞作

優秀賞

時を超えた黙阿弥からのメッセージ

雙葉高等学校 2年 髙橋理紗

 私は5月に行われた團菊祭の夜の部を見に行った。そして、黙阿弥作「三人吉三巴白浪」の「大川端庚申塚の場」を見た。実は、私はこの場を見るのは3回目だ。
 この場は、元は旅芝居の女方で、今は振袖姿の美しい娘と見せかけ実は世間で噂の女装の盗賊お嬢吉三(尾上菊之助)が、夜鷹のおとせ(尾上右近)から百両を奪い取り立ち去ろうとしたところ、元々は武士だったが落ちぶれて、盗賊となったお坊吉三(市川海老蔵)に見つかり、その百両を巡って争いが起こる。そこへ、以前は所化で今は盗賊をしている和尚吉三(尾上松緑)が登場し間に割って入り仲裁する。そして、お嬢吉三とお坊吉三は百両を和尚吉三に渡すと、互いに自分の血を盃に注ぎ酌み交わして義兄弟となり、3人はその場を去っていくという内容だ。
 他の演目と比べると台詞が少なく、「型を見せる」芝居である。だからこそ、仕草一つ一つに神経が行き届き、台詞一つ一つに魂がこもっていることが客席までよく伝わってくる。特に有名なお嬢吉三の「月も朧に白魚の…」という台詞では、かっこ良く決めるのかと思いきや最後はクスッと笑えるコミカルな調子になり、菊之助の演技力を見せつけられた。また、盃を酌み交わす場面では様式美が感じられるだけでなく、互いに傷を布で巻くのに手を貸し、何気ない会話をしているところに細かいところまで手を抜かない役者さんの芝居に対する真摯な姿勢が感じられた。
 この場は内容が比較的わかりやすいにも関わらず、私が何度見ても理解しがたい場面がある。それは、血の盃を酌み交わし義兄弟となる場面だ。もし、現代の盗賊がたまたま出会った名前が同じだっただけで「じゃあ兄弟になろう」となるだろうか。私はならないと思う。確かに、お嬢吉三とお坊吉三にとって、刀を抜き争って生きるか死ぬかというところを救ってくれた和尚吉三は命の恩人であるだろう。だが、普通なら百両を手渡すところで終わるのではないか。ところが、この芝居はそこでは終わらない。ここに、3人の関係性は救われた2人とその命の恩人というものだけではない、ということが感じられる。では、この3人に共通してることは何だろうか。
 それは、この3人は今でこそ落ちぶれてしまったが、かつてはある程度の地位を得ていたということである。当時は、身分制度がはっきりしていた時代である。自分はこうなるつもりはなかったという気持ちや、盗賊として生きていくしかないということへの惨めさを味わっていたのではないか。さらに、盗賊は孤独である。1人で盗みを働き、人から物を奪った後は誰も自分の心情を理解してくれることはなく、ただただ憎まれ、敵を増やしていく。3人はこのような苦しい日々を送っていたのではないか。
 このような状況で、同じような境遇の人と出会ったらどのような気持ちになるだろうか。盗賊として生きている人にしかわからない気持ちをわかってくれる人を見つけたらどう思うだろうか。わかってくれる人はこの人たちしかいないと思うだろう。そして、ずっと孤独だった自分達に仲間意識が芽生え、この人たちとの出会いを放っておくわけにはいかなくなるだろう。そうして3人は血の盃を酌み交わし、義兄弟の契りを結んだのではないかと思う。
 この場は一見、様式美を見せる芝居だけに見えてしまう。しかし、黙阿弥が見せたかったのはそれだけであろうか。現代まで残り、そして現在でも幾度も上演されているということには何か理由があるはずだ。黙阿弥が伝えたかったのは、この世の中大切なのはお金でも地位でも剣の腕前でもなく、仲間を持つことだということなのではないだろうか。血の盃を交わすまでに百両を奪い取り、刀で戦う場面があるのはそうしたことを暗に伝えるためだと思う。
 どの役者がやっても、観劇する時の自分の心情がどうであろうとも、この場は仲間の大切さを伝えてくれている。心が自然と芝居に寄っていけば、必ず数百年の時を超えて黙阿弥からのメッセージを受け取れるはずだ。

[公演名] 團菊祭五月大歌舞伎『三人吉三巴白浪 大川端庚申塚の場』
[主催団体/劇場] 松竹/歌舞伎座

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