高校生による舞台芸術公演の劇評(レビュー)を募集

第3回グランプリ 受賞作

優秀賞

哀しいおかしみ

大阪市立咲くやこの花高校 1年 小川竜駆

 客電が落ちると、暗闇のなかに突如男の声が響く。続いてけたたましい歌謡曲とともに港の夜明けのシーンになり、舞台下手から六人の女性がコミカルに登場する。彼女らが各々の荷物を運びこむと、その中からひとつの人形が大事そうに取り出され中央に置かれた。さまざまな境遇を経て集った彼女らが唯一共通して信じあえる何か、それがこの人形に投影されているのだ。オープニング曲がやむと、海鳥の鳴き声。一つの音が一瞬にして、海の香りと空気をつくりだした瞬間であった。海辺のさわやかな情景は女たちの歌声に包まれ、そこに汽笛の音が重なったとき、シスター島崎さんと漁師の家の中野さんが到着し、観客は「彼女たちの事情」について少しずつ知りはじめるのだ。
 どうやらこの集団は、敬虔な普通のキリスト教徒でもないが、頭のおかしな集団でもないことがわかる。至って平凡な女たちが「オッチャン先生」という教主のもとに、ただ信じられるものを求め、このどうしょうもない社会を逃れてきただけ。「何かいけないことをしましたでしょうか?」という気持ちで。そんな思いを彼女たちは童謡や唱歌のメロディーに込め、劇中の至るところで歌う。それぞれの歌の歌詞自体に強いメッセージ性があるわけでも、ストーリーそのものとの関連性があるわけでもない。しかしなぜだかその意味をもたない声の響きが、非常に美しく切なく、時にはおかしささえ伴う。そんな哀しいおかしみこそがこの芝居の魅力でありテーマなのであろう。
 私は、実際の「イエスの方舟」事件についてはよく知らなかったが、飽きの来ないコメディ仕立てのストーリーはとてもわかりやすく史実を思い起こさせ、それでいて深みを感じさせてくれた。そこには、もちろん伝統ある文学座の風格と手の込んだ演出、舞台機構がある。しかし今回の舞台は、美術、照明などの視覚的効果はもとより、耳から飛び込んでくる情景が一番濃厚で演劇的だったように思う。芝居における聴覚の刺激というものを改めて考えさせられた。
 まず、舞台に登場する役者は女性のみのため、たまに登場する男性の声は舞台をより新鮮で緊張感のあるものにしてくれることを感じた。視覚から入らない人間の存在感の大きさは印象的だ。次に聴覚に働きかけてくる重要な小道具は、ブラウン管テレビである。そこから流れる「ひょっこりひょうたん島」「東京五輪音頭」などの時代表現は、視覚の助けを借りることなく私たちを楽しく過去にいざなうが、なにより彼女たちが逃れてきた『現実社会』と、南九州の『ハコブネ』とをつなぐ架け橋にもなっているのだ。それは物語の進展に影響するばかりでなく、この対比そのものにもやはり確実なおもしろさがある。
 やがて物語が山場を迎えると、テレビからもれるオッチャン先生と取材陣の声。マスコミは、ハーレム教団に入った未成年少女について激しく批判的に報道する。体を壊したオッチャンは少女の両親に告訴され、さらに弱っていく。彼女たちが聖書の一節や歌によって何とか紛らわしてきた不安は、どんどん限界に近づいてゆく。居場所を教えた者を責める女たち。停電、少女の告白……。舞台はもうハチャメチャになり、深刻なはずがドタバタと喜劇の色を強める。そしてオッチャンの死。それでも残された彼女たちは哀しくもおかしく生きていかなければならない。そして、彼女たちが歌う「歌を忘れたカナリア」ですべての騒動が締めくくられる。
 最高に芝居がかった笑いのなかに共存する哀しみやリアルは、人間の真実を描きだす最高の手法といえるだろう。それをちょうどいい重さで観客に届けてくれるものが、聴覚的効果のなせる業ではなかったろうか。

[公演名] 何かいけないことをしましたでしょうか? と、いう私たちのハナシ。
[主催団体/劇場] 文学座/ピッコロシアター

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