高校生による舞台芸術公演の劇評(レビュー)を募集

第二回グランプリ 受賞作

優秀賞

ランボーの幻影

慶應義塾女子高等学校 3年 靨 紗貴

 繊細な青い窓明かりとゆらめく蝋燭の灯りの中、ショパンのノクターンが印象的に響き渡る。場は幻想的でありながらも歪(いびつ)さを孕み、混沌としている。そこに生瀬勝久氏演じるヴェルレーヌが浮かび上がり、独白をはじめる。極々絞られたその声は、その根底にある深い情感が自然と感じられ、場の空気を瞬時にして支配する。観衆は息をつめて見つめ、そしてこれから、ヴェルレーヌの目を通した、ランボーとの劇的な日々を見ることとなる。
ヴェルレーヌが去ったかと思うと、舞台装置が鮮やかに動き出し、眼前に一つの広い部屋が形作られる。この舞台はいくどとなく場面転換が行われるが、その動きは本当に素晴らしく、まるで一つの意思を持った生き物かのようにさえ見えた。私がはじめ、何か床がきらめいていると思ったのは無数の配置の印であった。
 部屋には大きな窓が横並びに四つ。暖かな光がさし、母娘が穏やかに過ごしている。しかしそんな空間を切り裂くような、強い声があらわれる。ランボーだ。不遜な態度で家中の物をあれこれと眺め、尊大さと幼さを存分に体現する。パイプ煙草を手にしているのもまた、特徴である。この後もしばしばランボーは煙草を手にしているが、なんとこの舞台、本当に煙草を吸う。辺りを包む紫煙には、舞台空間の広がりを感じる。この舞台では煙草以外にも、飲み物や蝋燭の火などが実際に用いられている。鮮やかな緑色のアブサンや、揺らめく灯りは、舞台の呼吸を感じさせ、場を絵画的にもさせている。
 このように舞台において様々なアイテムが用いられながらも、劇自体は殆どがランボーとヴェルレーヌ二人の会話だけで構成されている。その中で男たちはしばしば対照的である。例えば序盤の、ヴェルレーヌが妻の肉体と愛について語る時、ヴェルレーヌは一点に留まり、客席に向かって訴えるように話すのに対し、ランボーは時ににまにまと笑みをうかべ、時に鋭い瞳を見せながら、ヴェルレーヌの周囲をまとわりつくように、誘惑するように話す。そのランボーの姿は、自由であり、異質であり、そして舞台の枠組みからすらも外れたように思われる。
 そしてヴェルレーヌが冒頭で「あの独特の訛り」と言うとおり、ランボーは時折どこか不思議なイントネーションで話す。訛りには可愛げがあり、そしてやはり異質でもある。
 ランボーは限りなく奔放で、透明だ。演出家である蜷川幸雄氏は「小悪魔」とランボーを表現しているが、確かにこれは「小悪魔」だろう。これは演じる岡田将生氏の自然さと透明性にも起因している。佇まいが素直で可愛らしい一方、しばしば見受けられる文学的言い回しは自然で知的である。岡田氏は「演じる」という次元を超えたところで、ただただあるがままの姿でランボーとして存在していた。複雑なパーソナリティを持った天才という役を、私たちはなんの違和もなく受け入れることができたのである。
 それには受け取る生瀬氏の、情感込められた繊細な演技の働きも大きい。そこに「存在」しているランボーとの間にある結びつきがランボーとの会話の応酬によって緻密に構成されていた。それによってランボーはより一層魅力的な存在として昇華されるのである。
さて、そんなランボーを急き立てるのは、何かを成さなければならないという使命感に他ならない。
 その思いがランボーにヴェルレーヌの手に剣を突き立てさせ、「ひとつ耐えられないのは、すべてが耐えられるってことだ」と指摘させる。しかし最後にヴェルレーヌの独白の最中、回想としてあらわれたランボーは、セリフはそのままに、その手に剣を突き立てるわけでなく、そっと唇を落とす。光を浴びたランボーは聖性を帯び、その光景は宗教画じみていて、もはやこの世のものとは思えない。
 太陽と月が交わり、そして別れてゆく。その交わりは鮮烈で、そして悲劇的だった。気を抜くと取り残されてしまいそうな、めまぐるしい場面の数々と知的な言葉の応酬とがヴェルレ―ヌの独白とともに走馬灯のように駆け巡る。もちろんそれは身近とは言い難いが、二人の創り出す愛の美しさと切なさに強く心を惹かれる。そして最後には愛に対する手放しの賛美を覚えずにはいられない。  「ランボーは死んでなんかいない」
 ヴェルレーヌの言葉である。そして私の頭からも、ランボーの影は離れそうにない。

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