高校生による舞台芸術公演の劇評(レビュー)を募集

第二回グランプリ 受賞作

優秀賞

赤鬼―差別なき世へのあてなき航路を探して

早稲田実業学校高等部 2年 石本秀一

 -I have a dream that one day this world will rise up and live out the true meaning of its creation…
 -Let freedom ring…(ともに略)
 これは劇中の「赤鬼」の台詞の一部だ。アメリカ黒人解放運動の旗手であったキング牧師のスピーチの一節が基である。このスピーチは差別問題を語る上で欠かせない。
 『赤鬼』は野田秀樹の言わずと知れた名作だ。歌人の俵万智さんは、この戯曲が収録されている『解散後全劇作』のキャッチコピーに、『これらの作品は「古典」と呼ばれることになるのだろう』という文章を寄せている。新進気鋭の演出家中屋敷法仁が洗練し、新たに創りかえたのが2014年版『赤鬼』だ。
 ある村に住む「あの女」と知恵遅れの弟「とんび」のもとへ「赤鬼」と呼ばれる異形の者が漂流してくる。あの女は赤鬼の言葉を理解し心を開こうと努力するが、なかなかうまくいかない。そんな中、赤鬼が人間を喰うと勘違いした村人たちが、赤鬼を迫害し、処刑しようとする。先入観に頼り、自分とは違う他者を排除しようとする人間の本質だろう。
 あの女や浜一番の嘘つき「ミズカネ」の尽力で一旦は処刑を免れた赤鬼だが、結局あの女と共に処刑されることになる。一度植えつけられた先入観は簡単には取り払えないのだ。しかし二人は、とんびとミズカネのおかげで監禁されていた洞窟から抜け出し、みなで自由の地を求め航海へ繰り出す。
 ところが四人は船で食糧難に苦しむ。差別を受け、仲間にも見放された赤鬼は、空腹と精神の限界で、理想郷に辿り着くことなく死んでしまう。困難を乗り越え自由を掴みかけながらも息絶えてしまう姿は、志半ばで凶弾に倒れたキング牧師と重なる。ミズカネに、死んだ赤鬼の肉を食べさせられて生き永らえていたことを知ったあの女は、自分への失望から自殺する。ミズカネは、恋していたあの女を自殺に追い込んだ罪悪感でふさぎ込む。絶望を知らぬとんびだけが変わらず生きていく… 生きるということは他者との関わりを持つということ、関わりが強いほど他者の喜びは自分の喜びに、他者の絶望は自分の絶望となる。ミズカネは赤鬼に絶望を与え、死に追いやった。しかしそれはあの女の死を招き、自分自身が苦しむことになった。絶望は連鎖する。あの女の死は、絶望の連鎖から自分を切り離すということはできないというメッセージなのだ。
 黒木華は、強さの中に儚い弱さも持つあの女を見事に演じ、凛とした佇まいで舞台上の空気を張りつめさせる。柄本時生は、とんびの頭の足りなさを全身で表現出来ていた。あと少し純粋無垢さがあれば、野田秀樹演じたとんびを越えただろう。玉置玲央演じるミズカネからは、嘘つきゆえあの女に素直になれない複雑な心情がひしひしと伝わってきた。小野寺修二はほとんど台詞はないが、赤鬼の持つ切なさと苦しみを内面からうまく発していた。アンサンブルも確かな存在感を放ち、欠くことが出来ない。
 中屋敷版では野田版の「人種間での差別」ではなく、「世代間での差別」(年代によるコトバの違い)を軸にするため、赤鬼とあの女たち村人が、同じ言語を話しながら物語が進むはずだった。ところが途中から赤鬼が複数の言語を話すようになり、その軸がぶれてしまったのは残念だった。だが、小野寺振付による身体表現やアイヌ民謡を基にした「祖国の歌」などは独創性があり引き込まれた。中屋敷の力量の高さが窺えた。
 舞台装置は大道具がなく、青く模様が塗られた木製の円形舞台だけだが、落ち着いた色の衣装がよく馴染み、照明と音響、そして何より役者の力で情景が浮かんできた。
 公演場所の青山円形劇場は、どの位置からも役者の熱量を感じることが出来た貴重な劇場だ。東京五輪に向け文化振興を進める中での閉鎖は演劇文化の軽視に思え、とても残念だ。
 『赤鬼』初演は1996年、約20年前である。それほど経てば大抵の作品は時代背景の違いによる違和感を少なからず憶えるものだ。しかし『赤鬼』はそういった違和感がなかった。新作と言われても頷ける。人類の歴史の中で差別は常に普遍的な問題だからだ。2014年もヘイトスピーチやスポーツにおける差別的横断幕などの問題が起きた。観客の多くが、差別というのは物語の中だけでなく、自分たちのすぐそばにあると気づけたなら、この時期での『赤鬼』上演は大きな意味がある。
 差別意識とは人間の根底から簡単に消せるものではない。しかし私たちは今日も差別のない世界を求め、絶望と希望が混沌とする海原をあてもなく航海している。人々が対話を続け、同じ方向を向けたなら航路は開く。時間はかかるが必ずやってくるであろう、この世界から差別がなくなる日―それはこの『赤鬼』という作品が、「古典」と呼ばれるようになる日でもある。

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