高校生による舞台芸術公演の劇評(レビュー)を募集

第二回グランプリ 受賞作

最優秀賞

鳴かぬ蛍が身を焦がす-人形浄瑠璃

筑波大学附属駒場高等学校 2年 吉原爽斗

 なぜ人形に人真似をさせるのか。シリアスなドラマを演じるなら人の方が適任に決まっている。学校行事で観た初めての文楽(人形浄瑠璃)は、そんな思い込みを覆した。
 本能寺の変を題材に、謀反人武智光秀(史実における明智光秀)とその一族の苦悩を描いた『絵本太功記』。「尼ケ崎の段」では主殺しを責めて光秀の下を去った母、皐月の隠居先が舞台となる。皐月の家を訪れているのは光秀の妻、初陣に先立ち祝言を挙げることとなった光秀の息子十次郎とその許婚初菊、そして刺客から逃れるため旅僧に身をやつし宿を求めていた真柴久吉(羽柴秀吉)。さらに久吉を追って光秀もたどり着き竹藪に潜む。光秀は好機を得て竹槍で久吉を討とうとするが、槍が刺したのは皐月だった ― 。
 芝居を観ていると不思議な感覚に襲われる。文楽では人形一体を都合三人で操るが、彼らが平然と姿を見せているのである。黒衣によって「見えないことになっている」が、そうはいっても、見える。三人の中心となる、首と右手を担当する人形遣いに至っては、顔を隠さず出している。しかし気にならない。人形遣いを無視して人形芝居に集中できる、ということではない。人形遣いの存在、所作もまた、芝居の一部となっているのだ。人形を操る彼らは人形を、場の空気を自らの身におろし、その代弁者となる。殊に人形が躍動するときそれを操る人形遣いがやはり大きく動き回る、その動きはまるで舞のよう。人の動きが観客の目にはっきり入りながら、人形の芝居を壊さず、むしろその純度を高めていた。人は、人形の体の延長としてそこにあった。
 人が人形の手足となって、舞台のうえになにか異質な世界が現れてくる。それをぼんやりと見つめる。どこからか語りと三味線が聞こえる。ふいに気づく。文楽とは沈黙の芝居ではないか。
 文楽においては、登場人物の台詞やナレーションを一手に引き受ける大夫の語りと、そのBGMである三味線が描写を担当する。人形が歩く足音や戦場の銅鑼の音といった効果音は舞台から聞こえるものの、観客の情に訴えるのは、客席上手側に張り出した「床」と呼ばれる場所にいる両名の語りと演奏だ。だから人形たちの芝居を見ていると、だんだん聞こえているのが台詞や伴奏というより、終始無言の彼らの心がどこか別のところから漏れてきたもののように感じられてくる。祝言を挙げた直後に勝ち目のない初陣に赴く十次郎と初菊の悲痛、自身の死を光秀の罪滅ぼしのための天罰と諦める皐月の嘆息、そして一族が悲劇に見舞われてなお己の正義を貫く光秀の覚悟。いずれも大夫が切々と謳いあげる間、人形たちは無論黙ったままだ。大夫と三味線が、沈黙を守る舞台の人形の代弁者となる。こちらは、人が人形の心の延長としてある、といえるだろう。
 では、人形が沈黙を保ち、人がその延長となり代弁者となる意味はどこにあるのか。
 頭に浮かんだのは、恋に焦がれて鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす、ということだ。恋に限らず、封じられた思いほど深く真実味がある。殊にフィクションにおいては。義理と人情で義理を優先すればこそ、人情が痛切に感じられる。恥ずかしげもなく台詞で心情を説明するキャラクターより、隠そうとしてわずかに心情の滲むキャラクターの方が共感される。文楽が人形にシリアスドラマを演じさせたのも、そしてにもかかわらず人を排除せず人形芝居の一部としたのも、同じ原理によるものではないか。
 人形が芝居を演じる。生身の役者と違って、内面の変化はほとんど表出しない。代わりに人形遣いが体の延長として、大夫と三味線が心の延長として、過剰なほどに人形の内面を表現する。人形がどれほどその身を焦がしているか、これでもかと訴える。しかしそれでも嘘くさくはない。この上ない真実味がある。なぜなら、どれほど代弁しようと当の人形は「鳴かない」からだ。人形はあくまでほぼ無表情に、一定の所作で芝居を遂行する。光秀が己の信じる正義のために、十次郎が孝を尽くし、初菊が武士の妻として、私情を犠牲に悲劇への道を進んでいくように。そして観客は、鳴かぬ人形が真実身を焦がしていることを否応なしに納得させられる。
 後半、戦に敗れて帰還し倒れ伏す瀕死の十次郎を、光秀が叱咤するくだりがある。『光秀わざと声荒らげ「ヤア不覚なり十次郎。子細は何と、様子はいかに。― つぶさに語れ」』
 この台詞の最中、大夫の語りも三味線も止み、遠く戦場の音が聞こえるばかりの舞台上で光秀だけが小さく動いている、そんな時間がある。何の代弁もないこの間、しかし変わり果てた十次郎を痛ましく思いながら心を鬼にしている光秀の内面がはっきり伝わってきた。それは、沈黙する人形たちが身を焦がしているとすでに納得していたからなのだろう。
 普段知っている演劇、テレビドラマなどとは文脈の異なる古典芸能に、演技の意味を考えさせられた。

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