高校生による舞台芸術公演の劇評(レビュー)を募集

第一回グランプリ 受賞作

優秀賞

見るべきもの

横浜雙葉高等学校 2年 平川千晶

 「木の上の軍隊」。この作品は、井上ひさしが最期の力を振り絞って書こうとしていた作品である。しかし最後まで書き終えることはできなかった。井上ひさしは生前、「同じ日本人なのにひどい目に遭った人たちのことをずっと書くのが仕事だと思っている。」と話していたそうだ。この作品は、井上ひさしが劇作家として最も伝えたかったことではないだろうか。私はそう思った。

 この話の舞台は戦争中の沖縄。大きなガジュマルの木の中に二人の兵士が隠れている。新兵と上官だ。この大きなガジュマルの木は二人の身を隠すだけではなく、彼らから戦争終結の事実さえも隠してしまった。聞こえなくなる爆撃の音、姿が見えなくなる兵士達、日に日に木の下に捨てられる量が増えていく敵国の食糧、そして、変わってゆく上官の姿。新兵は戦争の終結に気づく。自分たちが敵国の軍から観察され、馬鹿にされていたことも。そして、二人は木になるのだ。

 この劇の出演者は三人。新兵を演じる藤原竜也、上官を演じる山西惇、語る女を演じる片平なぎさだ。新兵は兵士であると同時に沖縄の住民であり、戦争の知識がまるでない。爆撃の中友人を助けに行こうとしたり、空腹に負けて泣いたり、楽しそうに雑談をしたり。一方上官は自分にも他人にも厳しく、日本国民としてのプライドを強く持っている。この対照的な二人の会話でほとんど話が進んでゆく。しかし時がたつにつれ、この二人はそれぞれ変わってゆく。自分に厳しく、兵士らしくなっていく新兵と、敵国の食糧で肥えて緊張感のなくなっていく上官。上官は、新兵よりも先に戦争が終わったことに気づいていたのだ。この二人の変化が明確になった時、私は狐にでもつままれたような気分になった。毎日の会話の中での変化があまりにも微々たるものだったからだ。顔つき、動作、語られる言葉の呼吸までもが本当に少しずつ変わっていたのだ。私はこんなにも細かく心の変化を表現できるものなのかと衝撃を受けた。一方、片平なぎさの語る女という役は人間ではない。ガジュマルの木の精だ。この役は兵士の二人と対照的な普遍的な存在である。時間の流れに関係なく常にそこにあり、決して変わることはない。表情や目にも感情の色はなかった。それでいて二人を包み込むような温かさを感じさせるのだから不思議だ。

 劇場に入ると、舞台全体がガジュマルの木になっていることに驚いた。絡まった枝の様子はまさに恐ろしく大きなガジュマルの木そのものであった。あんな足場の危ないところで演技ができるのは、舞台の上で“生きている”からなのだろうか。また、こまめに変わる照明は時間の流れを明確にしていた。しかし、私が何よりも驚いたのは藤原竜也の演技だ。「その背中を見ていると、何でそうゆうことをするのかねぇと、へんな気持ちがこみ上げてきます。命を懸けるということはでーじすごいことと思うのですが、自分にとってはやっぱり不思議なことであり、そのようにありたいと願う一方、何でそうゆうことが出来るのねぇ、と不可思議な気持ちになるのです。」これは新兵の台詞だ。私は劇を見終わった後、この台詞が頭から離れなかった。何故だか分からないが、藤原竜也の言葉は聞いていて心地よく、すんなりと入ってくる。言葉がまっすぐで力強いのだ。何回藤原竜也の舞台を見ても、そのたびごとにまったく違う人として目の前に現れる。あんな演技が出来るようになりたいと私はいつも思うのだ。

 この話の最後、二人の兵士は木になる。これは井上ひさしが言い残したことだそうだ。私は劇を観に行く前からこの最後を知っていたから、一体どうやって二人は木になるのか、この言葉はどういう意味なのか、ととても楽しみにしていた。すると最後、ななめになっていたガジュマルの木全体が地面に垂直になり、二人の兵士は木と一体化した。そして、今でもこの木から沖縄を見つめ続けている。という終わりだった。私はその時、この兵士達もガジュマルの木とともに普遍的な存在、沖縄戦を象徴する存在になったのだと感じた。
今あの二人には何が見えているのだろう。沖縄住民の反対を無視して飛ぶオスプレイだろうか。二人の目には悲しみの色がみえてはいないだろうか。この話は沖縄戦の時だけの話ではない。今も続く沖縄の問題に対する無言の抵抗であるのだと感じた。これが、井上ひさしが劇作家としての生涯を通して最後に伝えたかったことなのだろう。私たちはこの問題をしっかりと見つめなければならない。

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